18になったし、過去を振り返る。
よくまさらっきに言われる言葉がある。
「鈍感になれ」
まさにその通りで自分にかけている部分の大半を確実に当てているワードなのだが、自分にはそれがいつまでたってもできないらしい。
鈍感。
逆は敏感。
自分は極度の敏感だということは中学の時に先生に言われた。
「お前は少し繊細な部分がある」
少しどころではないのだが。
「他人の評価など気にするな」とも言われるのだが、自分がこういうSNSをしている以上、自己顕示欲というものが多くあり、それこそ他人にちやほやされたいと思っている自分がどうしても表面に出てしまう。
死にたいんじゃない。生きたくないんだ。
ミオヤマザキの歌にこんな歌詞がある。
死ぬのは怖い。死にたくはない。
でも生きたくもない。どうせ生きたところで〜〜となってしまう。
不幸なことに、この世界は残酷だ。
「民意」というものがある。
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人民の意思。人々の考え。そういう意味がこの醜い言葉に込められているようだ。そう。僕からすればこんな言葉死んで欲しいくらいだ。民意という言葉があればなんでもねじ伏せられる。「あの子を排除しよう。」「なぜ?」「大多数の民意が決めた」「あの子をいじめよう」「なぜ?」「多くの民意がそう示しているから」人間というクソのような生き物に生まれてしまった以上、この醜い考えに嫌々付き合わされてはや18年経ち、慣れてしまっているかと思ったら、これがなかなか慣れない。民意なんか消えちまえばいいのに。そう思うことはよくある。小学生の頃から僕はいじめられていた。友達もいない。先生も無視する。幼稚園の頃は先生も僕に暴力を振っていた。そんな環境で育ってしまったからこそ、周りの言葉が真実のように聞こえてしまうのかもしれない。いじめといじりの違いはなんだろう。笑えるか笑えないか。そう言った人がいた。僕には全部笑えないように聞こえる。少しでも「消えろ」と言われたら「あぁ、自分は消えた方がここに幸せをもたらすのか」と考える。過去生きてきた中で自分が幸せの要因になったことなど1秒もない。逆だ。自分が害悪で不幸の源になり続けていたのだ。「あいつがいるから逃げよう」「あいつがいるから近寄らないでおこう」そう言われ続けていた。暴言と暴力しか周りはなかった。「生きる意味ある?」そう言われた時、「ある」とは答えられなかった。何故なら自分の中で当時既に「生きる意味なんてない。朝起きて、飯食って、学校行って暴力振られて帰って泣いて寝るの繰り返し。幸福な点などないだろう」そう思った。泣きっ面に蜂。なんて言葉が世の中にある。ネットという素晴らしい世界に逃げてきた僕はネットでどうにか生きていこうと試行錯誤する。どうだ。これがその有様。大失敗。ネットも人の性格はカバーできない。大多数の人間は電マ先生という人間を拒み憎み恨みそして「死ね」という言葉を投げかけたもしくは心中に沈めた。「私はそう思ってないです」と構ってくれる人もいる。ありがたい。だがそれすら本当かわからない。裏切りも絶えずあった自分の過去だそう簡単に信じられるはずないだろう。あいつの言っていること。自分をフォローしているようだが嘘だ。そう思ってしまう。申し訳ないがフレニコの僕に対する慰めのコメントは全部嘘に見えてしまう。無意識なんだ無意識に嘘だと識別してしまうのだ俺は18年というまだ短い人生を歩んでいるが自分の中では18年以上の苦労をしたと思っている社会不適合者その言葉がお似合いだろうか。今俺がニートの理由も人と接触するのが怖いからなのだ。人が嫌いだ。人間という生物は絶滅すればいい作り出してしまうそのカースト制度はただの身内の殺し合い。善か悪かの区別もわからずただ吐かれる暴言を受けてきた。否。全部悪だった。善のようなコメントも全部ひっくり返せば悪だった。俺の周りには悪しかいなかった。会えば「死ね」と言われ会えば「消えろ」と言われ会えば「邪魔」と言われ「あぁ、自分っていらないんだな」「消えてしまった方がいいんだろう?」と考える。死ねっていうなら死んでやるさ消えろっていうなら消えてやるさ邪魔ならこの世から消えてやるさそれが些細ないじりでもそれがただのキャッチボールのボールを投げたような感覚だとしても俺からすれば全てまっすぐに飛んでくるナイフのようにしか見えない。喋りたくないんだ何言われるかわからないしどうせまたお世辞のオンパレード自分は死んだ方がいいかと思って思ってでも怖くてナイフをまたしまう。この世界で生まれてまだろくなことがない少しぐらい感じさせてくれ少しぐらい体験させてくれ幸せとやらものを僕は何も幸せに感じたことがないだから感じさせておくれ僕に幸せとやらものを